伊万里鉄道

 伊万里鉄道は、有田、伊万里で産出される陶器その他の農産物、それに伊万里炭田の石炭輸送を財源として創設された鉄道である。明治28年9月17日、伊万里町の藤田恒助ほか60人の有志が発起人となり、資本金27万円をもって、伊万里から九州鉄道有田に接続する伊万里鉄道を企画した。
 線路は伊万里から九州鉄道有田に接続するもので、明治29年2月14日仮免許、次いで29年5月23日、本社伊万里町、資本金27万円、有効期限2ヶ年をもって免許状が下付された。


 
伊万里鉄道は免許に伴い田中藤蔵を社長に、藤田与兵衛(恒助改名)を監査役に、横田鉄五郎を技師長にそれぞれ選任し、明治30年2月28日伊万里駅構内敷地に起工式を挙げ、建設に着工した。工事は進み、明治31年(1898)8月7日、伊万里・有田間8マイル11チェーン(13.1km)を開通した。中間駅は夫婦石、蔵宿の2駅で、有田駅は九州鉄道と共同使用で開業した。

伊万里鉄道は発起当時、沿線各地に株式引受希望者が多く、伊万里町で32人2,305株、沿線4ヶ村13人470株、有田町5人200株、西松浦郡4ヶ村4人200株、他郡6人150株の3,300株で、発起人引受株の2倍に達するという好況であったが、その後経済界の
不況により、増資額を含めた40万円に対し、引受は29万円にとどまり、やむなく14万円の借入金によって工事を続けたが、完成までに1,653 円の欠損を出したため、他の鉄道と同様の経路を経て、結局九州鉄道へ譲渡することに決定した。

 一方九州鉄道は、明治30年6月17日仮免許を受けた船越鉄道船越・飯塚・前原・満島・浜崎・伊万里・仲原・大宰府間83マイル(133km)の権利を買収していたが、同線を長崎線に連絡するためには、伊万里鉄道線を通過せざるを得なかったので、伊万里鉄道を買収する意向であったため、同鉄道の合併が決定、明治31年12月28日、伊万里鉄道は一切を35万円でば売渡した。


伊佐線(松浦線)の開通

 現在の松浦線は、有田・伊万里・松浦・佐世保間の93.9kmである。
しかし、このうち有田・伊万里間13kmは伊万里鉄道(のち九州鉄道買収)、および肥前吉井・佐世保間25.1kmは佐世保鉄道線で、いずれも官線着工前に国有となった既設線であった。但し、佐世保鉄道は石炭輸送を主目的として建設された軽便鉄道で軌間は2フィート6インチ(762mm)。このままでは官線として私用できない。したがって既設線といっても、線路その他建造物を含め、新設線同様な工事を要した線区であった
鉄道百年史によると、佐世保鉄道の開通は次のように述べられている。
大野・上佐世保間 大正9年10月7日開通 延長3.0km
相浦・大野間 大正9年3月27日開通 延長11.5km
大野・柚木間実盛谷・臼ノ浦間 昭和6年 8月29日開通 延長7.6km
四井樋・佐々間  昭和6年12月27日開通 延長1.7km
佐々・世知原間  昭和8年10月24日開通 延長11.7km

このうち佐々・世知原間は、岡本彦馬から譲り受けた専用鉄道を、地方鉄道に変更したもの。と記録されている。また日本鉄道請負業史には、「肥前吉井・上佐世保(現在の左石と北佐世保との間)間約20km。大正9年3月27日営業開始。大正11年10月1日国有、大部分を改築、一部は新しいルートで建設とある。以上を鉄道百年史年表によってまとめると。

大正9年3月27日 相浦・柚木間開通
同年10月 7日 左石・佐世保間開通
昭和6年 8月29日 実盛谷・臼ノ浦間開通
同年12月27日 四井樋・佐々間開通
同10年11月 9日 佐世保線佐世保・北佐世保間開通
同11年10月 1日 佐世保鉄道上佐世保・世知原間、左石・柚木間、実盛谷・相間、四井樋・臼ノ浦間鉄道を買収

となる。
 
佐世保鉄道は、大正6,7年のかけて石炭輸送を主目的として、中倉万次郎ほか11名は佐世保軽便鉄道会社を発起、大正7年3月29日大野・上佐世保間および、相浦・柚木間14.1kmに、蒸気運転による軌間2フィート6チェーン(762mm)の軽便鉄道の免許を下付され、大正7年8月21日、本社を佐世保におき中倉万次郎を社長とする、資本金50万円の佐世保軽便鉄道会社を設立した。
 まず開通したのは前述の如く、大正9年3月27日相浦・大野・柚木間11.5kmで、次いで左石・佐世保間、実盛谷・臼浦間、四井樋・佐々間、最後に佐々・世知原間を開通した。以上による開通路線のキロ程を合計すると、線路延長は35.5kmとなるが、これには本線のほか支線も含まれた延長キロである。なお佐世保軽便鉄道は途中で佐世保鉄道と社名を変更した。佐世保鉄道は、昭和11年10月1日、国に買収された。買収価格は402万2,874円、公債交付額で418万4,900であった。国に引継がれた資産は線路、駅、停留所のほか、機関車21両、客車24両、貨車280両等であった。


伊佐線

 伊佐線は、陶器の町伊万里を起点として西に進み、北松浦半島の北側を経てさらに西進、半島の突端でわが国最西端の駅である平戸に至り、ここより東南に進み肥前吉井を経て軍港の有る佐世保にいたる路線である。
 
本線は大正9年第43帝国議会で軽便鉄道の認可をうけ、熊本建設事務所の所管により、昭和3年2月伊万里から工事に着手し、区間竣工とともに順次開業し、昭和14年1月25日潜竜まで開通、一方佐世保からは昭和10年11月9日佐世保・北佐世保間を開通したが支那事変のため工事を中止した。しかし戦局の進展に伴い、北松浦炭田の製鉄原料炭輸送と、佐世保軍港への軍需品輸送のために工事を再開し、昭和19年4月13日、潜竜・肥前吉井間が開通、また同日、四井樋・臼ノ浦間および四井樋・世知原間の改軌が成り営業を開始した。

 伊佐線建設にあたっては、伊万里を起点として全線を11工区に分けて施工された。主な構造物は、伊万里・志佐(現松浦)間では、主要橋梁は7橋で伊万里・東山代間の有田川橋梁は区間最長で鈑桁径間12.2m10連、18.3m2連、6.1m1連が架設された。トンネルは3ヶ所であったが、うち高峯トンネルは延長432mであった。

 志佐・肥前吉井間では、北松浦半島大岳山麓の海岸沿えのため、志佐・平戸口間では千分の25、30,33の急勾配が連続し、築堤、切取の土工量が多かった。また建造物は主な橋梁が10橋であり、うち第一江迎川橋梁は鈑桁径間22.8m5連、12.9m4連、25.4m1連を架設した。トンネルは4ヶ所、うち平戸口・江迎間の田代トンネル延長1,370mは本線中最長であった。
 志佐・肥前吉井間では構造物ではないが、日本一の名物駅がある。地理的に日本の最西端にある平戸口駅である。東経129度35分、これより西には鉄道駅はない。平戸口は亀岡城の城下町、南蛮貿易港として栄えた平戸の玄関口である。

 肥前吉井・佐世保間には旧佐世保鉄道を全面的に改築した区間であった。主要な構造物は、橋梁は小橋梁を除き9橋、主なものは真申・相浦間第四相浦橋梁は鈑桁を架設した。上相浦・肥前中里第二相浦川橋梁も鈑桁の架設であった。トンネルは6箇所であったがいずれも延長は最大40mの小トンネルであった。以上で改築区間肥前吉井・佐世保間を含む伊佐線伊万里・佐世保間80.9kmは、昭和19年(1944年)4月13日全通した。なお線名が松浦線となったのは昭和20年3月1日であった。

 伊佐線の工事請負人西本組、星野合資その他であった。鉄道転換建設上複雑な経過をたどり、且つは伊万里から松浦、北松浦半島一体に重要な足跡を残してきた松浦線であったが、今次の国鉄再建法の適用を受け、認可廃止線の仲間に入ってしまった。昭和60年度の輸送密度が1、228とあっては、これも致し方あるまい。しかし幸いなことに鉄道は残ってくれた。昭和62年12月10日、第三セクター松浦鉄道会社が鉄道をもって代替輸送を引受けたためである。

鉄道路線変せん史W 九州の鉄道100年史